辻斬り書評  -6ページ目

ロシア近現代史+南米近代史

マッシモ・グリッランディ
怪僧ラスプーチン


奇しくもロシア革命を挟んで書かれた2つの歴史読本を続けざまに読む。
世界史の授業でほんの1行のみ登場するラスプーチンの生涯を、著者マッシモ・グリッランディが詩人らしく荘厳かつ叙情的な筆致で書き起こした「怪僧ラスプーチン」。
単なる評伝を超え、聖俗併せ持った「魔人」の実像に迫る傑作だ。
あくまで小説であるため学術的にどこまで正確なのかは僕にはわからないが、混沌の時代に登壇し禍々しい光芒を放って潰えた男の肖像のみならず、帝政ロシア末期の政治状況を知るのにも格好のテキストだと言えるだろう。
近代日本の方向性を決定付ける一因となった日露戦争はもちろんのこと、ロシアと日本の政治的な関係性は過去から未来に渡ってきわめて重要であるにもかかわらず、我々日本人は彼の国に対して多くを知っているとは言い難い。
まるでモスクワを覆う曇天のように、日本人のロシアの印象は鈍色にくすんだままだ。

ロシアを理解するには、あの国の地政学的な特異性を念頭に置かねばならない。
西洋に対する底深い辺境性ならびに東洋に対する存在感を同時に具有する国家は他に類を見ず、おそらく共産主義と資本主義の対比という20世紀的なマターよりもはるかに、その稀有な性質が世界史に落とした影は大きかったはずだ。
その一端は、本書を読むことによって開示されるだろうと思う。
戦慄、あるいは畏怖の念とともに、ロシア近代史にその名を刻む「魔人」の息吹を感じてほしい。

オススメ度★★★★


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アナスタシア

ジェイムズ・ブレア ラヴェル, James Blair Lovell, 広瀬 順弘
アナスタシア―消えた皇女


誤解を恐れずに言えば、こちらの本は昼メロ好きな女性向き。
なにせ約70年ものあいだ、全ヨーロッパをまたにかけて親族間でおどろおどろしい怨恨劇が繰り広げられた話である。
事が滅び去ったロマノフ家の莫大な遺産をめぐる骨肉の本家争いだったにせよ、本書で示される恩讐を超越した凄まじい確執は、まずは貴族階級の特異なメンタリティを、そして女性特有の粘っこい情念を抜きにしては到底理解が及ばない。
男性読者のほとんどが、その角逐の激しさに辟易とするに違いない。我々男には、どうにかして遺産のおこぼれに預かろうと暗躍する寄生虫たちの卑しい心底のほうが、まだしも想像しやすいことだろう。

本書は、革命とともに惨殺されたはずの皇帝一家の唯一の生き残りと称するアンナ・アンダーソンの、苦痛に満ちた生涯を記録したノンフィクションだ。
皇女アナスタシアことアンナは、1984年にその生涯を閉じている。享年82。

著者のジェイムズ・ブレア ラヴェルは、晩年のアンナの知遇を得て本書をまとめた。
彼は独自調査の結果からアンナ=アナスタシアを信じており、資料的に判断のわかれる部分もほぼ全面的にアンナの言い分を支持しているため、本書にある一定以上の客観性を求めるのは難しいのかもしれない。
とは言うものの、彼女の真贋論争はいまもって決着が付いたとは言い切れず(没後10年を経て発見された、いささか出所の怪しそうな肉片を基にDNA鑑定がなされているため)、この一件は解かれることのない歴史の結び目として今後も存続し続けることだろう。
真贋の判断を度外視してアンナ=アナスタシアの立場に立ってみると、聖家族(ロシア正教では皇帝一家は神と同一視される)の座から日々の糧にも事欠く「狂人」にまで転落した彼女の精神状況を鑑みるに、心痛さえ呼び起こされる。
頼るべき血族やマスコミを含む数々の権威によって自己を完全に否定された人間が覗きこんだ深く暗い淵、それは想像するだに苦痛だ。
自身を証明しえたはずの物証や状況証拠を有しながら、ある部分では公に対してその供出を頑なに排除したアンナの非論理性も、最後に残された一片の尊厳を護るための態度であったと考えれば、いくらか得心がいく。
考えてもみてほしい。
恐ろしい虐殺によって親兄弟が死に絶え、この世の地獄をくぐり抜けた辛苦の果てに、暖かい抱擁を求めた祖母や叔父叔母からにべもなく偽者扱いされてすべての道を絶たれたたとしたら。
心無い人々(と言い切ってしまうのは一方的ではあるが)に利用され、まったく人を信じることが出来なくなったとしたら。
自分は間違いなく自分であるという確信、ボロボロの自尊心を護ることこそ、何にも増して重要な行為となるのではないだろうか。
少なくとも僕は、本書の後半以降を壮絶なアイデンティティ・クライシスの物語として読んだ。
そら恐ろしい体験だった。


オススメ度★★


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寺田 和夫
トゥパク・アマルの反乱―血ぬられたインディオの記録


1492年のコロンブスの航海を皮切りに、エルナン・コルテスがアステカ王国を、フランシスコ・ピサロがインカ帝国を滅ぼしたスペイン(それぞれ1521年、1532年)。
その後数世紀にわたるスペイン統治が中南米にもたらしたものは、人口を激減させた疫病と深刻な貧困だった。
あらゆる富を搾り取られ、長く苦渋を強いられた先住民「インディオ」たち。
彼らを蹂躙し、苛斂誅求の限りを尽くした征服者たち。
本書は、命を賭してそれに反抗した者たちの血痕を追跡した記録だ。


16世紀この方、一握りの白人が権力を握り、その他の国民が貧しいままに置かれる構造は、程度の違いこそあれ現代にいたっても中南米の抱える根本的な問題だ。すなわち白人と非白人の社会的な格差である。
近代に入ってスペイン(ポルトガル)の支配から次々と独立を果たした中南米諸国だが、その革命の淵源をたどるとトゥパク・アマルの乱に行き着くと、著者は語る。
インカ皇帝の末裔が指導したこの反乱はやがて中南米全域に飛び火し、およそ2年間、間断なく燃え続けた。
そのどれもが結局は鎮圧されてしまうのだが、それまでスペインの圧制に耐えかねた非白人がたびたび起こしてきた反乱と一線を画す特徴として、この広義の「トゥパク・アマルの乱」は現地生まれの白人(クリオーリョ)階級をも陣営に取り込んだ点が挙げられる。 これをもって、著者はのちの本格的な革命の先駆とみなしている。

本書は前半部分で「クスコ攻防戦」を中心とした狭義のトゥパク・アマルの乱を、後半からは各地で蜂起した反乱勢力と体制側の戦い――広義のトゥパク・アマルの乱ととらえる――を、それぞれ時系列順に紹介する。

散発的な内容にとどまった後半に比べると、トゥパク・アマルその人にフォーカスした前半部分のほうがおもしろい。


とかく僕は反乱というものに何故か肩入れしたくなる質なのだが、本書で探り出される反乱の首謀者像は、学者の目線がゆえに過剰な思い入れが抑制されていてやや物足りなさを感じさせはするものの、反面この時代の中南米社会を俯瞰しやすくなっている。

ことにスペインが敷いた統治機構や制度について詳細に述べられていて、ほとんど予備知識のない人間であっても、インディオたちが圧倒的な火力の差をしてなお立ち上がらざるをえなかった社会背景を、手に取るように理解することができる。


いまの教育制度ではほとんど西欧か中国しか習わないのが世界史の実情だが、現在の国際情勢を理解するには、むしろ中東・アフリカ・中南米のような紛争多発地帯のいまから遡及し、西欧や中国など中心文明との因果関係を把握させるべきだろう。

1996年に起きたトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のペルー大使館占拠事件のとき、本書のような歴史読本を周知させた教師は果たして如何ばかりあったろうか。



オススメ度★★★




「マイルス・デイビス自叙伝ⅠⅡ」クインシー・トループ / 帝王の生き様





ほとんどモダン・ジャズ限定のなのでそうたいした聴き手ではないのだが、一応は僕もジャズファンの端くれである。
とは言え、ジャズの帝王と渾名されるマイルス・デイビスに関してはビバップ・ハードバップ時代のアルバムをいくらか有しているのみで、実のところさほど知らなかった。
わかる人にはわかるのだが、僕はセロニアス・モンクやルー・ドナルドソンというやや変り種からジャズの世界に足を踏み入れた人間なので、いまだにどこか耳が変則的なのだ。
そのおかげで最近はジャズ・ファンクを聴くこともできるのだが、マイルスの打ち立てたクール・ジャズには正直それほど魅力を感じないのである。

そんな僕でも、この本にはかなりアツくなった。

なにしろ伝説のトランペッター、バードことチャーリー・パーカーを初めとしてディジー・ガレスピー、アート・ブレイキー、バド・パウエル、もちろんセロニアス・モンクもそう、あるいはジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズといったまさしくジャズジャイアントたちが闊歩したあの時代を猛烈な勢いで駆け抜け、のみならず若きカリスマとしてジャズそのものを変容させてしまったマイルスが、自らの言葉で半生を語った本なのだ。
ある意味ではジャズの歴史そのもののマイルスの口からほとばしる音楽への情熱や独特の人生観、さらにはあの時代に何が起こっていたのか、言及はただのバイオグラフィーを越えてアメリカ社会や黒人文化の批判にまで及ぶ。その圧倒的な臨場感たるや!


そう、本書はモダン・ジャズファンなら興奮して転げ回りたくなってしまうような、たまらない本なのである。

強烈な個性を備えたひとりの天才者音楽家が明らかにする、血と汗に彩られたリアルなジャズ史。

村上春樹あたりがおセンチに語る上品なジャズ小説などとは到底比べ物にならない、とてつもないエネルギーとカオスに満ちた剥き出しの物語がここにある。

すべてのモダン・ジャズファンに捧ぐ、歴史的傑作。

マイルス好きもアンチ・マイルスも、とにかく読むべし!


いつの時代も本物は危険で、すばらしい。





マイルス デイビス, クインシー トループ, Miles Davis, Quincy Troup, 中山 康樹

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉


マイルス デイビス, クインシー トループ, Miles Davis, Quincy Troup, 中山 康樹
マイルス・デイビス自叙伝〈2〉


オススメ度★★★★

「冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行」ジム・ロジャーズ / 投資家、世界を齧る




このニヤけたおっさん、誰?
本書の著者にして有名な投資家ジム・ロジャーズ は、かのジョージ・ソロスのパートナーとしてかつてウォール街に名をはせた人物だ。
彼はいま現在もアメリカ経済における重要人物として活躍しているそうで、調べてみると今年の1月には日本で講演も行ったらしい
本書は1990年、ジム・ロジャーズ48歳の春から約2年をかけてパートナーと世界中を駆け巡ったバイク旅行の顛末を記した冒険自伝小説である。

旅程はこうだ。
本拠地ニューヨークから飛行機でアイルランドに渡り、その後中央ヨーロッパを縦断してトルコに入り、東進して中央アジアを抜け中国へ、日本は東京を折り返し地点に今度はシベリアに突入して再びアイルランドへ。
矛先を転じて地中海を突っ切りアフリカに上陸したあと、サハラ砂漠を越えて南アフリカに向かい、それから機上の人となってオーストラリアへ、ニュージーランドを経由してお次は南アメリカ最南端に降り立ち一路北上、中南米を貫いてアメリカへと帰還するという道のり。
総走行距離実に10万キロ以上、世界の六大陸をあまねく走り回るグレート・ジャーニーである。
天才投資家と呼ばれるジム・ロジャーズだけあって、さすがに単なる諸国漫遊の旅ではなく、行く先々で抜かりなく有望な投資対象を掘り出すという充実ぶり、なんとも精力的な御仁である。

さて、お気づきのとおり、1990年時点でソ連はまだ健在であり、またその後の中欧民主化のひとつの機転となったベルリンの壁は崩壊したばかりで東ドイツは未だ存在していた。
ソ連邦を構成する中央アジア諸国は当然ながら共産主義体制のままで、中国とて先年の天安門事件の影響から外国人の入国に神経を尖らせていた時期である。
アフリカ諸国となると今もって内乱と貧困のなかにいる有様だし、そんな世界をアメリカのしかも有名投資家が、よりにもよって地べたを走って走破するなど、無謀極まりない所業である。
ジム・ロジャーズに幸いしたのは、ソ連を筆頭に共産主義国家が枕を並べて衰亡していく最後の過程に入っていたことと、それと軌を一にしてそれらの地域で資本主義がジワジワと伸張しつつあったことだ。
事実、彼が帰国した直後にソ連は解体されて新たに独立国家共同体(CIS)を創設し、ここに東西冷戦は終焉を迎えることとなる。
まさに絶妙のタイミングで旧東側諸国の経済事情を実地で体感したジム・ロジャーズは、旅の先々で資本投下を行った株式市場からのアガリで、絶大な富を成したことだろうと思われる。
もっともジム・ロジャーズ自身、そこまで早いタームで利殖を得ることになるとまでは予測していなかっただろうが、それでも5~10年単位で必ず成功を収める見通しはあったことは、本書に散見できる著述から間違いない。
本書を読むと、彼の国際投資に関するプリンシプルは実にシンプルかつ強靭な理論によって構築されており、それは一に国家統制主義が末期状態を迎えて経済が底を打っていること、次に資本移動や商品移動の自由が開かれている(あるいは開かれつつある)ことである。
疲弊のかぎりを尽くしたソ連下の中央アジアや、社会主義独裁から脱却しつつある南米諸国のうちに確実に資本主義の発芽を見るや、ジム・ロジャーズはすぐさま株式市場の調査に着手して確実な銘柄を試し買いするのである。
もちろん制度の未発達を理由に買いを控える場面もあったり、すでに開かれて好況と見られている市場であっても見限ってあっさりスルーすることも多々あるのだが、ここで重要なのは、彼がいかにしてその基準を適用するかの峻厳な線引きだ。
辣腕ファンドマネージャーらしく、先々で共産主義者や統制経済を罵倒する彼の徹底した市場原理主義は、まがりなりにも資本主義国で生まれ育った僕ですら少なからず面食らうほどの強烈な信条となっており、しかし果断と言うほかない判断力となにより一切ブレのない鉄壁の理論(上述)は、歴史学の観点からもまったく矛盾しないのである。
実際、本書を読みながら彼のあまりに実利的な思考様式に何度となくとまどわされたことを告白しなければならないものの、その首尾一貫した史観は世界を理解するうえで必須の物差しのひとつに違いなく、本書の眼目は一にかかってその精度および強度の披瀝にある。
資本主義の申し子の目を通して見た世界もまた魅力的であり、僕は本書でジム・ロジャーズが切り出してみせた異層的な世界に魅了された。
訪れる国々で、彼は表の世界のみならずときにはブラック・マーケットとも積極的に交流し、民衆の裡にひそむ行動原理を探り出す。
そのいずれもが共産主義や統制経済に疲れ果て、切羽詰った欲望といまよりもマシな生活を希求する願い に満ちているのである。
それは決して机上の空論ではなく、実際に廃棄されて錆付くがままに街道に放置された戦車や、パン以外の日用品が存在しない商店街、何十年ものあいだ水よりもガソリンが安く設定されたままの不当な経済事情が物語る事実なのだ。
彼はそれら残骸をしっかりと見に焼付け、自由と資本主義を求める人々の偽らざる将来への夢を嗅ぎ取ってバイクを走らせていく。
疫病や夜盗の影におびえながらも敢然と六大陸を走り抜けていくなかで、歴史の流れや世界の動きを俯瞰し、分け入っていく彼の知識体系や歴史感覚は圧巻である。
自分を探すなどという甘っちょろい代物ではなく、世界そのものを発見する旅。その輝かんばかりの能動性。
これはもう、諸手を挙げて素晴らしい本だと言うほかない。


惜しむらくは、紙幅の制限によってカットされた3割部分に記述されていたであろう旅情や旅の風景、異郷の旅に付き物の文化的なトラブルやパートナーとのやりとりを読むことが適わない点で、これについては僕は甚だ落胆した。
読んでいくなかでそういったヒューマニックな部分があまりに少ないこと、また文と文のつながりに不自然さが諸所見受けられること(いつ国境を越えたのかもわからないほど、乱暴にカットされたところもあるくらいだ!)から、本書は或いは抄訳ではないかと疑念をもったのだが、訳者あとがきによって初めてその事情がわかった。
日系ビジネス人文庫さん、人はビジネスによってのみ生くるにあらず、ですぞ!
出版人として恥を知りなさい。
リベラリストのパートナーとジム・ロジャーズの他愛のない諍いのなかにも、資本主義を批判する一方の視点がきっとあるはずなのだ。
もし本書が改訂される機会を得たならば、次こそは完訳版を出版されたい。

ということでいくらかのミソは付いたものの、資本主義がどういったものか、また経済という不可視光線を照射されて初めて浮かび上がってくる世界や歴史の様相を学ぶ格好のテキストとして、本書は現代人が是非とも読んでおくべき一冊であると断言して、このエントリを閉じたいと思う。


ジム・ロジャーズ, 林 康史, 林 則行
冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行 日経ビジネス人文庫


オススメ度★★★★★

「アリゾナ無宿」逢坂 剛 / 痛快、西部劇小説



「アリゾナ無宿」。

タイトルのあまりの渋さに目を引かれて手にとってみると、作者が逢坂 剛。

スペイン小説の第一人者 が西部劇風小説とはまた、そそる組み合わせではないか。

なんたって、ロバート・ロドリゲスのマリアッチ3部作にぞっこん惚れこんでいる僕である。

シンプルな武侠アクションものは肌に合う(あ、でも日本のは湿度が高すぎてダメ)。

迷わず購入である。


ときは19世紀後半、馬と鉄道と銃声によって構成される大ウェスタン。

ひょんなことから、タフでクールな賞金稼ぎトム・B・ストーン(「墓石」をもじった変名)と行動を共にすることとなった孤児ジェニファは、記憶を無くして辺境をさまよう風変わりな日本人・サグワロを交えた即席パーティーの一角として、アリゾナ中を巡る無宿生活に入る。

賞金首を求めて今日は東、明日は西へと旅を続ける3人組に次々と訪れる危機、また危機。

狡知に長けたお尋ね者らの仕掛ける罠を事も無げに見破る凄腕のトムと、切れ味鋭い日本刀と抜群の体術で一騎当千の働きを見せるサグワロに挟まれた、ただの素人娘ジェニファではあるが、持ち前の明るさと無鉄砲さがいい活性剤となって、この奇妙なチームは次第に機能し始める――――。



オーソドックスな人間模様やストーリー展開にはなるほど新鮮味や斬新さは薄いものの、安定した筆運びのおかげで退屈することなく読みきれる。

3人それぞれに加え、登場する脇役のキャラクターもしっかり立っていることが、さらに拍車をかける結果になった。

荒野を駆け巡る無法者と渡り会う彼らの勇姿、そして何度となく差し挟まれるユーモラスなシーン。

うーん、美味。これぞ冒険小説のお手本。


本書がプロローグ的な内容に収まってしまっているのが残念だが、たとえば記憶の壁に阻まれたサグワロの過去の秘密が明らかになったり、トムの宿命のライバルなどが登場して大活劇を繰り広げるような続編が創られる余地も十二分に考えられるので、ぜひ期待したいと思う。 ※


カラッと痛快なエンターテイメントを読みたい方には、一読の価値あり。


逢坂 剛
アリゾナ無宿


オススメ度★★★



※調べてみると、2005年に「逆襲の地平線」というタイトルで続編が出ている由。文庫落ちを待つ!



ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
エル・マリアッチ コレクターズ・エディション
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
デスペラード コレクターズ・エディション
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
レジェンド・オブ・メキシコ デスペラード

「山田長政の密書」中津文彦 / シャムに馳せた日本人頭領の伝説

ときは江戸初期。
豊臣秀吉のそれをさらに発展させる形で貿易政策を推し進める家康の膝元から漏れ落ちるように、シャム(現在のタイ)に流れ着いた男がいた。

男の名は山田長政仁左衛門長政。
日本人傭兵部隊の長として国王護衛の任に就くや、たちまち頭角を現し、爵位を重ねてついには属領地リゴールの総督(リゴール王と俗称されるほどの地位)にまで登りつめたとされる。
英明な王のもとでビルマからの独立を勝ち取ったばかりのシャムで波乱の人生を送った長政は、しかし総督就任まもなく政変にからんで毒殺されてしまうのだが、帰朝果たせず異邦で没した遣唐使・阿倍仲麻呂以来、日本人を母に持つ明の鄭成功を除けばほとんど唯一、外国政府で重用された日本人である。権力の中枢という意味では、現在に至るまで彼ほど異国に食い込んだ日本人はいないだろうと思われる。

日本における彼に関する資料はほとんどなく、わずかに駿河出身ということのみ伝わるばかりで、その実態は謎に包まれている。
方やのタイでも、当時の公文書は固有名ではなく爵位や官職名で記録されていたため、実のところ山田長政の実相は明瞭には浮かび上がってこない。
それゆえ、山田長政なる人物は実在したのだろうがリゴール王になるほどの目覚しい活躍はしておらず、大東亜共栄圏の先触れとして過剰に演出された幻の邦人伝説ではないか、とする人もいるらしい。

いずれにせよ真偽は歴史の彼方だが、織豊時代から3代将軍家光によって鎖国制度が敷かれるまでのわずかあいだ、東南アジア各域に分布してポルトガル・オランダ・イギリスなどの競合勢力と向こうを張って国際貿易に従事した日本商人や日本人町の隆盛を代表する、あるいはそのイメージを集約した人物像が山田長政である、とは言えるだろう。
そしてそれは、間違いなくロマンだ。


本書は謎に包まれた山田長政の生涯を、当時の国際関係やアジア貿易事情の推移と呼応させながら、徳川政権下でひそかに計画された遠大な反乱計画と結びつけて解題しようとした、大胆な歴史推理小説である、らしい。

らしい、と言うのは著者の書割がいまひとつその狙いに絞りきれておらず、大きな歴史ロマンの概容をわずかに示したにとどまっているからだ。

書き手が違えばさぞかしスリリングな物語となっていたことが予想できるだけに、この着想が中途半端な筋書きのままに結実してしまったのが惜しまれる。

いっそのこと素直に「山田長政伝」と銘打っておけば、いまひとつ消化不良な印象を残すこともなかっただろう。


歴史が好きで、山田長政のことをあまり知らないという方にはオススメの一冊。

白石次郎版山田長政の「風雲児」や、少し時代はずれるものの、ほぼ同時期のアジア海運ロマンを描いた同じく白石次郎の「海王伝」 と併せて読めば、一層の読書経験が可能である。



中津 文彦
山田長政の密書


オススメ度★★★

いや~、落ちた落ちた(笑)

こんだけ更新していないと、さすがにランキングも落ちますね。

納得の急降下です(笑)。

ま、こんなブログでも1年以上やってると、もう順位なんてどうでもいいんだけどね。

それはそうと最近なにかを文章化する機会が激減していたんで、なんだか物凄く頭が悪くなったような気がするんだよなー。

もともとあまり論理的な回転をしない脳みそが、ますます沈滞している感じ。

むむむ……。


よし。今月は、あと5つは書評をアップするぞ!


ということで。





「新任海尉、出港せよ 海の覇者トマス・キッド5」ジュリアン・ストックウィン / 始まりと始まり



海洋冒険小説界きっての傑作シリーズ「海の覇者トマス・キッド」の最新刊が、ついにお目見えした。
おげさなことを言うようだが、僕にとって本シリーズの新刊に飛びついて貪り読むことは、人生の楽しみの十指に数え入れられるくらいだ。これほどおもしろいエンターテイメントは、そうはない。


いち水兵から叩き上げ、下士官のなかでも指折りの高位である航海士まで昇りつめた我らが快男児トマス・キッドは、前作でイギリス海軍史上に刻まれる「ノア泊地の叛乱」を命からがら乗り切ったのち、オランダ海軍との一大決戦において功績をあげ、いよいよ海軍の正士官「海尉」への道を切り拓くこととなった。

今もそうだが、当時のイギリスには厳然とした階級社会が敷かれており、平民が紳士の職たる海尉に任官される道はほとんど閉ざされていた。

まして海上の絶対君主である艦長になれるケースはほとんどなく、この先著者ストックウィンの恐るべき野心どおりキッドが提督にまで昇進するとなると、その確立はほとんど天文学的な数字になる。

今で言うところの宇宙飛行士くらいの難度だと考えてもらえれば、その険しさをいくらか想像していただけることだろう。端的に言って、ほぼ不可能の域だ。

しかし、それをやってのける(予定)のが物語の真骨頂であり、作家の腕の見せ所でもあろう。


ともあれ、ターポリン・アドミラル(水兵あがりの提督)への道程を歩き始めたキッドなのだが、実は僕には今作を読む前から不安に思っていることが1点あった。

主人公が貴族出身で、最初から海尉や士官候補生として登場する大方の海軍小説シリーズと本シリーズを大きく画す特徴で、同時に最大の魅力でもある「水兵(平民)からの視点」が失われてしまえば、さしものストックウィンと言えども、従来からある海軍小説の定型に嵌まり込んでしまうのではないかという危惧である。

つまり、目端と機転のきく勇敢な若者が異常なまでに勲功をあげまくって、ズンズン昇進を重ねていく構図だ。

この手の小説には主人公の成長が必須で、軍組織のなかでそれが昇進という実に結びつくのは蓋し当然の筋道ではあるのだが、庶民出のキッドが海尉のスタートラインにつくことによって、形としてはそれら先行シリーズと同じ轍を踏むことはもはや避けられない仕儀となる。

そうなると、あとは物語を彩る個別の事件に差異をつけることでしか推進力を得られなくなり、既存の名作群と大差のない凡庸な作品へと滑落していく危険性さえ考えられるのである。

18世紀末~19世紀初頭のイギリス海軍という時代や舞台を同じくしているのだ、どうしたってバリエーションには限りがある。

先行小説の後塵をそのまま拝するだけでは読み手も、さらには書き手もつまらないではないか―――――。

拭い難い不安を抱えながらも、僕はようやく届いた新刊のページを開いた。



正直に言えば、今作の冒頭部分は高揚感にはほど遠い出来だったとするほかない。

船内では貴族出身の同僚海尉たち、船外では上流社会になんとか馴染もうと苦心惨憺するキッドからは瑞々しい感性と若々しい冒険心が無残なまでに失われ、常に新鮮な驚きに満ちていた彼の軍艦生活は一転して陰鬱なものとなってしまっていた。

胸躍らせる船の息遣いや開放感いっぱいの潮の香り、海上での神秘的な自然現象やエキゾチックな異邦文化との出会いに満ち満ちていた前作までと比べると、そのあまりの変貌ぶりには戸惑いすら覚える始末。

やはり不安は的中してしまうのか―――――。

僕は思わず頭を抱えたくなった。


……しかし、である。

キッドが船を離れて単独任務につく中盤以降、物語はぐんぐんと上昇し始める。

一時は退役という考えすら脳裏に浮かべた悩めるキッドは、独立を果たしたばかりのアメリカと、創生間もないその海軍と係りを持つことによって大いに触発され、かつての自信をと向上心取り戻し、庶民出の彼だからこそ目指すべき新たな針路を見出すのである。

そしてこの変化は、キッドに従って切なくも陰鬱な航海を続けてきた読者にも作用し、これまで本シリーズが与え続けてきた歓びが鮮やかに屹立する!

さすがはジュリアン・ストックウィン 、なんとも心憎い手際ではないか。


巨視的には水兵時代と士官時代のバイパスとなる今作、野放図ではあるが開けっ広げな爽快感あふれる下甲板の雰囲気が懐旧の彼方へと押しやられる一方で、シリーズを貫く深みのある世界観は一層強調され、今後の展望がますます拓かれた重要作となっている。これまで海洋冒険小説の世界ではあまり書かれてこなかった、生まれたばかりの合衆国海軍との絡みにも期待感が募る。

平民からジェントルマンに仲間入りしたキッドと貴族出の親友ニコラス・レンジとの対比も、これからは少し様相を変えていくことになりそうだ。


それにしても、ジュリアン・ストックウィンの広範な取材には恐れ入る。

本物の作家には相応の取材活動が求められるという点で、非常に勉強になった。

願わくば、いずれ取材顛末記のようなものが刊行されればうれしいのだが……。





ジュリアン ストックウィン, Julian Stockwin, 大森 洋子

新任海尉、出港せよ―海の覇者トマス・キッド〈5〉


オススメ度★★★★



関連リンク「愛国の旗を掲げろ 海の覇者トマス・キッド4」ジュリアン・ストックウィン

       :「快速カッター発進  海の覇者トマス・キッド1」ジュリアン・ストックウィン

「蒼海に舵をとれ  海の覇者トマス・キッド2」ジュリアン・ストックウィン

ちょい、と更新

アメブロ(正確にはサイバーエージェント、とするべきかな)にも意外と即応力があったんだね、というお話。

サーバを重くするだけと不評しきりだったアメーバマイページが、このたび廃止の運びとなった模様

なんだ、状況把握能力がないわけではなかったんだねー。


今後もこの調子で適宜適応してくれれば、ユーザーとしてもありがたいんですが……。


ところでワタクシ、ワールドカップのおかげで仕事関係の本しか読めてません。

うれしいやら悲しいやら。ブログも全然更新しないでいたら、ついにランキング順位も急落したしねえ。

落ちたら落ちたで気にならないこともないんだけど、ま、そんな時期があってもいいかな、と。無理やりにも読みたくさせられる小説とも出会っていないことだし。


ワールドカップが終わったら、晴れてなにを読もうかな?



「氷山空母を撃沈せよ! 上下」伊吹秀明


「偽戦史小説」とでも表すべきジャンルがある。

第二次大戦で日本が敗北せず、逆に連合国に対して大攻勢をかけるといったような内容だと思っていただければ理解が早いだろう。

別に右翼的なメンタリティがゆえにそんな小説が書かれているわけではなく、ひとりの作家の中でミリタリー嗜好と歴史嗜好が融合した結果、生み出されるものらしい。

らしい、と言うのは、僕も本書以外はまともにその類の小説を読んだことがないからである。

たしか志茂田景樹にもそんな作品があったような気がする、という程度の知識しかない。

あとは「旭日の艦隊」くらいか。

なので、上記のような理解はもしかしたら間違っているのかもしれないのだが、そうであればご容赦願いたい。



さて、本書である。

タイトルからある程度推察されるとおり、北極産の大氷山をなんと空母に仕立て上げ、全長約2キロにも及ぶ超ド級空母(ちなみに「超ド級」という慣用句は、元来「戦艦ドレッドノートを超える大きさ」の謂いで、件のドレッドノートはその大きさで艦船史に名を残す実在の軍艦である)を秘密裏に就航させたアメリカ海軍と、山本五十六率いる日本連合艦隊との熾烈な戦いを描いた、実に奇抜な架空戦記小説だ。


たとえば真珠湾攻撃において別働の南雲機動部隊が早々に帰陣せず、港湾施設までを徹底的に壊滅させていたら、とか、ミッドウェー海戦で日本側が空母艦載機の換装に失敗せず、アメリカ艦隊とがっぷり四つの戦いを展開できていたら、などという歴史のifを、そのような部隊運用の成否でこねくりまわさず、氷山空母などという開いた口もふさがらないトンデモアイデアで大回転させようというのだから、なかなかどうして、大したものである。


もっとも、見るべきものはほとんどこのアイデア一本で、あとはどこまでも類型的な人物造形や、戦史にさほど興味を持っていない読者を端から想定していない荒っぽい筋運びには、正直落胆させられた。

別段この分野の小説に期待しているわけでもないが、ただでさえファンの少ない弱小マーケットなのにこの体たらくでは、新たな読者層の獲得は難しいのではないか。

SFマインドを刺激する氷山空母というアイテムを持ち込んだ大胆さは評価できるだけに、厚みに欠ける物語構築には残念至極である。


また蛇足ではあるが、通常空母なら何隻も海の藻屑にするくらいの大爆撃・雷撃を受けてもびくともしない不沈の巨大空母を撃滅する方法はそれなりに振るっているが、どうせならもっと派手な立ち回りもできただろうに、とも思う。

もしかしたらこれから読んでみよう、という奇特な方もいるかもしれないので、そのあたりのネタばれは避けることにするが、僕なら大スペクタルを用意するなあ。せっかくそれが可能な駒が揃っているんだから。


本書の作者には、今後このジャンルを引っ張っていくくらいの気構えが欲しかったところである。

ちなみに今回エントリをアップする段で「伊吹 秀明 」を検索してみたら、以下のような結果を得た。


伊吹 秀明
出撃っ!猫耳戦車隊
伊吹 秀明
零式スターパニック


……なるほど(多くは述べまい)。

伊吹 秀明
氷山空母を撃沈せよ!〈上〉
伊吹 秀明
氷山空母を撃沈せよ! (下)



オススメ度★★

美しいうた

いきなりだが、僕は常時200枚くらいのCD保有する程度の、ちょっとした音楽好きである。のべ枚数ではその倍の400は購入しているはずだが、だからと言って何があるわけでもない。


読書にせよ音楽にせよ、そこそこの量を広く浅くこなす人間にとっての軽い困惑は「特定の誰が好き?」と問われることだろうと思う。

だいたいの場合、質問者は「熱愛を傾ける対象(なかんずく、マニアックなセレクト)があるのだろう」と想定しているようなところがあって、いや訊いてくれるのは結構なのだが、多くを渉猟するタイプの嗜好者にはいわゆる「おっかけ」の如き情熱とはまた違った楽しみ方を致しているのである。

だから意外に返答に窮することもあって、たとえば「この人の親しんでいるジャンルの中ではこれかなぁ」とか、「あんな名前を挙げてもわからないだろうし」とか、いろいろと逡巡した挙句、いたってオーソドックスな回答が口に出るケースも、ままある。


少し前の話だが、ネットで一時期交流のあった人(当時20代半ば)にオススメのCDを訊かれ、年頃の女性向けではないかもしれないと脚注をつけたうえでオマーラとセロニアス・モンクを紹介したところ、瞬く間に購入され、しかもあまり気に入られなかった経験があったりする。

当人の趣味に合わなかっただけの話なのだけれど、極端な話こういう事態も起こりかねないので、特に買うとなると本よりも単価の高い音楽CDに関しては、あまり会話に気が進まない部分がある。


ところが、である。

常ならず、大声で触れ回りたい歌手と出会ってしまったのだ。

PC環境の方は、ぜひ聴いてみてほしい。

僕も高校生の頃に首までハマッったビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」をカバーしたこのPV 、リンク先で「Beautiful song」と冠されているとおり、えもいわれぬ美しさに満ちた旋律と幻想的な映像でたちまち僕を打ち負かしてしまったのである。なにより、その声!

2回、3回と聴き惚れているうちになにやら熱いものまで込み上げてくる始末なのだから、もうどうしようもない。

ちょちょい、と調べて輸入版を注文してしまった。

気に入った方があれば下記リンクからどうぞ。

ちなみにCDの内容は、ビートルズのコンピレーション・アルバムのようだ。




サントラ, エイミー・マン&マイケル・ペン, サラ・マクラクラン, ルーファス・ウェインライト, ザ・ウォールフラワーズ, エディ・ヴェダー, ベン・ハーパー

アイ・アム・サム





オマーラ・ポルトゥオンド
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ・プレゼンツ・オマーラ
Thelonious Monk
Monk's Music