「鷲は舞い降りた」ジャック・ヒギンズ / 小説の教養 | 辻斬り書評 

「鷲は舞い降りた」ジャック・ヒギンズ / 小説の教養

後日アップする予定の「コンスタンティノープル陥落」の著者・塩野七生がその代表作「ローマ人の物語」のなかで再三再四言表しているように、一文化圏で共有されるべき歴史教養というものがあって、ことヨーロッパにおいてはローマ史がそれにあたり、我が東洋では中国史が相当する。

かたや宗教革命やそれに連なる産業革命、市民革命は今日的な汎世界的歴史教養ということになるだろう。

ソ連崩壊に端を発する共産主義国家の破綻と冷戦構造の解体、それに伴う世界の多極化は、評価が定まり始めるであろう22世紀において、広く教養化される歴史事象だ。

こういった文脈を援用して本書「鷲は舞い降りた」を眺めたとき、本書の主要市場である英語文化圏において当時ナチス・ドイツがどのような位置づけ・定義をなされていたかに意識的でなければ、おそらくこの小説の存在意義の一部を見落とすことになるはずだ。



ヒトラーを首魁とするナチス・ドイツは、いわば西洋世界が自ら産み育ててしまった鬼っ子である。

後発組でありながら先行帝国主義国家群に迫りつつあったドイツ帝国を第一次大戦で降し、その後に締結されたヴェルサイユ条約で過酷な賠償金を課してドイツ国民に塗炭の苦しみを舐めさせのは、ほかでもない英米仏伊である。

その結果、当時これ以上ないとされた理想的な民主主義憲法を戴くワイマール共和政下でナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は産声を上げ、やがて合法的にファシズム国家が誕生する事態を招く。

つまりナチスとは西洋世界が腹中に抱いたもうひとつの人格、ダークサイドのような存在なのだ。

なぜヒトラーのような人物が表舞台に登場し、ナチス・ドイツの狂気が出来したのか、西洋世界はある種の近親憎悪をも含んだ永遠の関心を抱き続けることだろう。


著者のジャック・ヒギンズはイギリス人であり、そのヒギンズが1976年に本書で宿敵ナチス・ドイツの軍人たちを一片の憎悪も反映させずに、どころか英雄的に描いたことがまず以ってセンセーショナルであり、こういった背景があってこそ、主役を演じたドイツパラシュート部隊の面々の印象が際立ってくる。

本書で明確に悪役の地位を与えられたのはSS長官のヒムラーくらいで、それも敵意というよりはこの人物本来の怪人的なキャラクターが招いた役割といえるだろう。

このあたり、たとえば旧日本軍の部隊が英雄的に描かれた小説が現代中国において生まれるかを考え合わせてもらえれば、多少意味合いは違っても本書の持つ特異性が明瞭になるかと思う。


順序が逆になったが、ここで物語のアウトラインを述べたい。

時は1943年。連敗につぐ連敗、首都ベルリンにまで及ぶ空襲を受け、いよいよ敗色濃厚となったナチス・ドイツ。

軍全体に厭戦気分が蔓延するなか、ヒムラーの強権により、戦略的には最早ほとんど価値のない作戦がひそかに発動される。イギリス首相チャーチルの誘拐である。

この荒唐無稽な作戦を、はっきりとそうと悟りながら死地に赴く、クルト・シュタイナー中佐率いる精鋭部隊ならびにアイルランド人の工作員リーアム・デブリンたち。

馬鹿げた綱渡りに駆り出されながらながらも、強靭な冒険者精神と結束力で粛々と作戦行動をとる彼らのキャラクターが実に爽やかに描かれており、ナチス・ドイツ的な狂信とは明らかに距離を取る言動や、一段高みに登った視点で戦争を語るセリフとあいまって、ほとんど敵味方の区別なく、恬淡とした男たちの物語が展開していく。

本書は戦争冒険小説でありながらハードボイルド的な言辞が多分に散りばめられており、その筋の読者層にも強く訴えかけるものがあるはずだ。

著者ヒギンズの弁によれば、この小説は半分が事実、半分が創作から成っており、その長いプロローグ部分で作者自身が登場人物となって、さびれた墓地の片隅に文字通り埋もれていた事実を掘り起こす場面は、導入としてはかなり効果的だ。

また、すべてが語られ、再び作者が登場するエピローグで初めて明らかになる事件の真相が実に衝撃的で、この後日談部分が削除されていた当初の不完全版は、不幸にして小説としての魅力が半減させられたものであったと断じていい。

この最後の仕掛けなかりせば、いかにベストセラーを記録した本書たろうと、果たして戦争冒険小説の傑作として長く読み継がれただろうか。


個人的にはドイツ人の名前に馴染みがないせいで、よく似た発音の登場人物が複数組いるのにはまいったが、そんな瑣末は別にして十分に楽しむことができた。

続編の「鷲は飛び立った」はあまり評判が芳しくないようなので避けるつもりだが、「死にゆく者への祈り」はいずれ読む機会が得られるかもしれない。



オススメ度★★★★



ジャック ヒギンズ, Jack Higgins, 菊池 光
鷲は舞い降りた (ハヤカワ文庫NV)