「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」―石光真清の手記 / もっとも劇的な日本人 | 辻斬り書評 

「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」―石光真清の手記 / もっとも劇的な日本人

戦前の満州始末をつらつらと読解していくなかで痛烈に思うことは、近代日本の諸相はその多くが彼の地からの反射作用ではないか、ということだ。

始まりは対露戦略の要地として、次いで中国侵略の足掛りとして戦前日本の最大懸案事項となった満州。

その満州を磐石ならしめるために、陸軍から政界に転じ首相まで務めた田中義一によってついには対満軍事計画が国家予算案に優先する異常な状態が招来するのを頂点とし、一方で日清・日露両戦争を経て内地の民草一人ひとりの意識が満州権益と不可分になっていくさまは、維新以後の歴史を百年単位で俯瞰したとき、ほとんど地殻移動をもたらすマグマの流れを想起させる。

その迂遠な運動を感得させずしては、いかな近現代史教育も半分は意味を成さないことだろう。過去の事例を将来への教訓とするとき、肝心のハーメルンの笛吹きの正体を知らないままでは、再びネズミは先を争って滅亡の大河に身を投ずることになる。


近代化や国際化、あるいは一言で軍国主義化としてもいいが、日本の針路を決定的に左右したのは明らかに満州であった。

先の戦争を対中と対米の二局に画して考えたとき、敗戦はアメリカによるものとはいえ、国家運営における重要度としては対米戦争など対中戦争の比ではなかったと言っていい。そもそもが、対米戦争は対中戦略の失敗から招いた戦いなのである。

いわば日本はオマケのような戦争で敗れたのだった。



さて、石光真清である。

幼少時に西南戦争を間近で経験し、長じて陸軍士官になってからは日清(台湾征伐)・日露戦争に従軍、その間語学研究のために入露してロシア事情を偵探、以降は北満の専門家として露満を渡り歩く軍事スパイとして活躍した人だ。ロシア革命後のシベリア出兵を機に任務を離れ、満洲国の隆盛を横目に内地で晩年を送った。つまり維新以降の戦争をほとんどすべて知っている形になる。

昭和17年に没したから敗戦を見ることはなかったが、一生を軍に振り回された石光にとってはせめてもの救いだったのかもしれない。


「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の四部作は石光が遺した手記を子息がまとめたもので、生前の石光本人の手によってあわや焼失の危機にあったものを細君がなんとか救い上げたのだそうだ。

残念ながら失われた草稿も相当あったようだが、それでいて四部作自体の完成度はきわめて高い。


新時代の息吹をその身に感じながら単身ロシアに渡るまでの青雲期を描いた「城下の人」、義和団事件を発端とする「ブラゴヴェヒチェンスクの虐殺」を奇貨とし雪崩を打って満洲占領を開始するロシアに対抗すべく、馬賊社会に潜り込んで各地の情勢を探ったり、はたまたハルビンにロシア軍御用の写真館を設立するなど、若き石光が八面六臂の諜報活動を展開する「曠野の花」、日露戦争での従軍記録と、戦後大幅な組織化が果たされ性質を変えていく陸軍から追われ、以後の零落を予兆する「終わりの始まり」が石光を襲う「望郷の歌」、初老にさしかかり身も心も疲れ果てた石光を再び大陸に狩り出すこととなったロシア革命と、戦略を欠いたシベリア出兵のはざまで「戦いとは何なのか」と懊悩する石光と、目的を失い迷走する陸軍の姿を浮き彫りにする「誰のために」。

このいずれもが、いちいち傑作なのだ。

殊に「曠野の花」などは、一種の冒険活劇と言っても過言ではない。一躍馬賊の顔役となった石光が背面から中国社会の真髄に触れ、また萌芽を見せつつあった現地日本人社会の生育や特殊性を体感していく過程は出色の出来である。

近代日本の焦点であった満洲を、生涯を通じて内側から体験し尽くした石光の自伝は、そのまま日本の側面史でもある。

満州統治機構に属したエスタブリッシュメントと、北の大地に広がって生産に従事した移民たちのあいだを埋める石光のような存在にこそ、満州の本当の姿が見えていたのではないか。


石光 真清
城下の人―石光真清の手記 1
石光 真清
曠野の花―石光真清の手記 2
石光 真清
望郷の歌―石光真清の手記 (1979年)
石光 真清
誰のために―石光真清の手記 (1979年)

オススメ度★★★★★