「カエサルを撃て」佐藤賢一 / カエサルを世界に解き放った男 | 辻斬り書評 

「カエサルを撃て」佐藤賢一 / カエサルを世界に解き放った男

ガイウス・ユリウス・カエサル。英語読みでジュリアス・シーザー。

「ブルータス、お前もか」で有名な、古代ローマの英雄である。

彼の歴史的な功績をひとことで表すなら、ローマに帝政の道を敷いたことだ。

以下、古代ローマについて軽く敷衍する。


イタリアに興ったちっぽけな都市国家ローマは、戦争で降した相手に順次ローマと同等の権利を与えていく「ローマ化政策」ともいうべき独特の統治システムによって、建国以来イタリアの地で膨張に継ぐ膨張を重ねていったのだが、北アフリカに君臨した商業国家カルタゴとの闘争を経て手中に収めた地中海世界に加え、その版図をガリア(現在のフランス)にまで拡げた紀元前1世紀ごろから、それまでローマの国家運営を円滑ならしめていた、貴族を中心とした諮問機関「元老院」とローマ市民権を有する庶民で構成される「市民集会」による民主政体制の旧態化が誰の目にも明らかになっていた。

時と経験に研磨され洗練されてきたとはいえ、しょせんは都市国家時代の政治体制なのである。早晩手詰まりを迎えざるをえないという事実に、いつまでも目を瞑っていられるものではなかった。

反面かつて王政を打倒した経験を持つ共和制ローマは、それゆえひとりの人間に権力が集中する体制にアレルギーに近い拒否感情を持っていた。

なにより法を国家の根幹とする社会を築いていたローマ人は、独裁を未然に防ぐためにそれこそ網のように立法を重ねており、わけても「絶対指揮権(インペリウム)」と呼ばれる時限性の軍事権力を与えられた人間の馴致に力を傾注するようになっていた。

ときになりふりかまわず大権を発令して一種のシビリアン・コントロールを固守せんとする元老院の姿勢に大きな疑問を抱いていた若き日のカエサルは、心中ひそかに新たな統治制度の確立を期していたと考えられている。

民衆派マリウスと門閥派スッラという当時軍事権力を背景にすさまじい武断政治を敷いた2人の権力闘争のあおりを受け、その後ようやくカエサルが政治の檜舞台に登場したころには、恐怖政治からの解放なった元老院主流派から共和制を転覆しようともくろむ危険人物とほぼ断定されてしまい、驚異的なスピードでガリア全土を制覇し、いよいよ国内に影響力を行使せんとしていたカエサルの進退はここにいたって窮まってしまう。

直前、武名高らかな一代の英雄ポンペイウスとローマ随一の富貴を誇ったクラッススとの三者同盟も解消されてしまっていたカエサルは、彼の「絶対指揮権(インペリウム)」の剥奪を宣言する元老院に対し、ついにルビコンを越えて軍を進めるのである。

地中海世界最高の武人ポンペイウスとの戦いに勝利し、念願のローマ改革に着手したカエサルは、しかしすぐさま暗殺される。

彼のあとを継いだオクタヴィアヌスが、クレオパトラのエジプトと組んだアントニウスとの覇権争いに勝利して事実上ローマに帝政をもたらすのは、それからわずか15年足らずの出来事であった。




本書の舞台となるのは、8年に渡るカエサルのガリア戦役のほぼ終局期に勃発したガリアの総蜂起。

これまでカエサル率いる精強なるローマ軍によって個別に制覇されてきたガリア各部族を統合し、反ローマの軍を興した若き族長ヴェルチンジェトリックスを一方の主役に配し、立ち向かうカエサルをもう一方の主演役者として対峙させている。

なお、現存するほぼ唯一の資料であると同時にラテン文学の最高峰とも称される「ガリア戦記」は、ほかならぬカエサルその人が陣中にて口述筆記させたもの。

これに全面的に依拠してしまっては作家の沽券にかかわるとでも言うかのように、著者は定説にとらわれない想像力を駆動させて、全ガリアの命運を決するこの一大決戦をヴェルチンジェトリックスとカエサルとの一個の人間同士の争いとして描きだしている。

ガリア制覇の緒から対ポンペイウス戦役を征するまでのあいだ、ほぼ負けるということを知らなかった常勝カエサルに地を舐めさせた稀有の好敵手ヴェルチンジェトリックスとは、いったいどんな人物だったのか。

彗星のごとく現れ、文字通り全ガリアの期待の星となったこの青年に大きく軸足を置きながら、佐藤賢一版「ガリア戦記」は展開する。


本書は、カエサルが備えていた世界性や歴史的背景に加担しないとすると、なるほどこのような書き方しかあるまい、と思わせる内容になっている。

が、ヴェルチンジェトリックス擁する半未開のガリア社会についてはよく調べられているのに対して、ローマ社会とカエサルを駆り立てたものを捨象しすぎたきらいもあり、作品を内から貫く背骨にまるで迫力がなかった。

また人間ヴェルチンジェトリックスと同じく人間カエサルの対比に終始したため、それ以外の部分が粗雑になった観も否めない。

ついには世界(当時のヨーロッパ文明においては地中海の周囲がほぼ世界のすべて)を制覇することになるカエサルの軍略の才を涵養した意味でも、ガリア戦役とヴェルチンジェトリックスの果たした役割は大きい。

そのあたりをじゅうぶん射程に入れ、ガリアの英雄ヴェルチンジェトリックスをローマ人カエサルから世界人カエサルへの劇的変貌の触媒として位置づけた著者の戦略眼は優れたものだったが、残念なことにアンチ「ガリア戦記」に拘泥しすぎて逆に自ら翼を折った結果となったようだ。


「カエサルを撃て」は反抗反骨の徒を愛する佐藤賢一の真骨頂と限界がもろともに表出した作品である、と僕は思う。



佐藤 賢一
カエサルを撃て


オススメ度★★★



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「王妃の離婚」

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